宝くじは愚か者の税金?

「宝くじとは愚かさに対する税金でしかない。」

この言葉、最近でも twitter で何度か見かけました。(こんな感じ) 誰の言葉だろうかとググってみるとヴォルテールという人で、ウィキペディアによると「啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者」だそうです。18世紀の言葉が21世紀になっても人気があるんですね。では、本当に宝くじは愚かさ、頭の悪さに対する税金なのでしょうか?

愚かと考える根拠、期待値

この言葉を語る人に理由を問うと、返ってくる答えは大抵同じだと思います。期待値がネガティブであると。

確率的に計算すれば、期待値が、50%にも行かないような商品  140円の価値しかないのに、300円の値段がするものを、年末の忙しいときに、わざわざ、何十分も、並んで買うというのは、私には、信じられない狂気の沙汰に思える。

TABLOG:宝くじは「無知への罰金」じゃないでしょうか - livedoor Blog(ブログ)

そのとおりです。特に日本の宝くじを考えるとそのハウスエッジ*1は50%を上回る鬼設定です。期待値で考えれば金をドブに捨てる行為でしょう。でも、ちょっと待ってください。保険を考えて見ましょう。多くの人が何らかの保険を購入しています。そして保険の期待値はネガティブです。宝くじと同様、保険に加入するものは愚かであると言うのでしょうか?こういう答えが返ってくるかもしれません。保険にはコストを支払っても得ることのできる効用がある、と。まさにその通り、効用の対価は各々の選好によります

宝くじは当たる確率を誰でも簡単?に計算できますよね。計算すれば、宝くじが「合理的にみて割りに合わない」ということは明らかです。それを承知の上であえて「楽しみのために買う」という選択は、ある意味で合理的です。何故なら、宝くじで平均して損をするのはわかっているのですが、万が一当たったらと「期待」の「楽しみの対価」と考えて、買っているわけです。

http://www.e-jinsei.jp/article/13234150.html

つまり、この2つの意見の違いはコストに対する価値観の違いです。10億円の資産を持っている人にとって賞金3億円の宝くじを購入して得れる効用はゼロ以下でしょうが、年収200万、貯金ゼロという人にとっては万が一の賞金3億円を期待する効用は160円以上になり得ます。また、10億円の前者は万が一のケガや病気で掛かる入院費用100万円に備えて期待値がネガティブである保険を購入する効用はゼロ以下でしょうが、200万の後者にとっての効用は付加保険料以上になり得ます。有り体に言えば、宝くじの購入者を愚か者と馬鹿にする行為は他人の価値観を馬鹿にしている行為と同じなのです。

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ところでヴォルテール信者は宝くじの期待値がポジティブならばどうするのでしょうか?実際にそういうこともあるんですよ。例えば賞金がキャリーオーバーされるタイプでは当選者がしばらく出ず、期待値がポジティブになることもあります。300円のくじの期待値は310円。さあ、どうします?実際、宝くじ愚か教・教祖ヴォルテールは偶然にもそんな機会に恵まれています。そのとき彼はシンジケートを組み資金調達し、そのくじを全部買い占めたそうです。裁判沙汰などのすったもんだがありましたが、結果的に彼は多額の賞金を手にします。出自は良いもののそれまで決して裕福ではなかった彼の今までの生活は一転、余裕があるものとなります。この奇貨が彼の哲学へ没頭できる環境作りの一端を担ったことは想像に難くありません。なんとも興味深い話ですね。

さて、買い占めれる額ならば良いのですが、例えば年末ジャンボの売上は平成20年度で4,090億円だそうです。シンジケートを組んで4000億からの資金を集めることが出来る人はそうそういません。期待値はポジティブだが買占めはできない、このような状況でいくら宝くじを買えば良いのか。このあたりは話し出したら長くなるのでまたの機会にしようと思います。

投機、ギャンブルは悪という価値観

前回書きましたが、ギャンブルとは投機であり、投機とはリスクテイクに他なりません。デリバティブ市場はカジノです。原証券に対してインサイダー情報を持っていれば別ですが、原証券の価格推移はランダムであり予測不可能であるというのが現在の前提である以上、全てのデリバティブの期待値は売買手数料の分だけ期待値がネガティブになります。単純にコール・オプションのロングを考えてみてください。なんだか宝くじのペイオフと似ていませんか?*2

私は様々な国のカジノに行きましたが、ギャンブルは素晴らしいという文化はどの国にもありませんでした。歴史にも例がありません。ほとんどの宗教においても、賭け事は非生産的行為であり社会に対する害であると見なされています。*3つまり古今東西、それが普遍的事実であるかのように、ギャンブルは悪とされてきたと言えます。だからこそヴォルテールの言葉は3世紀を経てもなお、好まれ、語り継がれているのでしょう。たとえ社会の害悪であるとしても、パターナリスティックに啓蒙/規制すれば全て丸く収まるという考え方には疑問を感じますが、それ以前に果たしてこのギャンブル=スピキュレイション(投機)=リスクテイクは害悪なのでしょうか?

悪とされて来た一方で、ギャンブルは人を魅了します。つまり人は好んでリスクテイクをする。私は人に限らずこの世のあらゆる生物は本質的には risk lover ではないのか、という仮説を持っています。これについてもまた機会があれば書こうと思いますが、ここで言いたい事は、文化/時代を問わず、あれほど禁止されてきたギャンブルが未だ無くならないという渾然たる事実です。多くの人が望み、淘汰されないで残ってきたものが果たして害悪なのだろうか、という疑問が生じます。

現在の私のスタンスはギャンブルは害悪ではないというものですが、それはあくまで私の価値観です。ギャンブル=悪という価値観を否定することはできません。結局のところ、ヴォルテールの言葉は、効用に対するコスト云々より、ギャンブルや投機に対する価値観により名言にも戯言にもなる非常に不安定な内容であると言えるのではないでしょうか。

*1:胴元が掛金合計から差引く割合。胴元の収益となる。

*2:当然、両者は別物だが、このようなペイオフはより好まれやすい。結果、需要が多くなるために価格は相対的に高くなる。

*3:これはギャンブルに限ったことではなく、形のない財を商うサービス業は全般的にそういう目で見られがちだが。